アフロ日記

日々の記録を、つらつらと。

ラップバトル

ラップスターというアベマの番組を知った。

昨年のものだったから、随分と時期はすぎたものだが、

2500人のオーディションの中で、300万円をかけて現役ラッパーによる審査を勝ち上がっていく。YouTubeのダイジェストを見たので、内容理解は中途半端も半端な感じだけども、それでも十分楽しめ、何より、ラップを聞きたくなった。

ラップは、エミネムの映画が面白かったくらい。あとは、友人が好きでやっているので、身近ではあったけども、自分から聴くことはなく、どこか、非合法な話、ことばがきつい、悲しい、暗い、出生などを乗り越える的な内容が多いイメージだったけども、決してそんなこともないんだなぁと。

今回の10人に選ばれた中でも、「喉電波」がインパクトがあった。正確な言葉は忘れたけども、自分の生まれも、育ちも普通。でもそんな自分の普通な日常がラップで楽しいものになる。みないなことを言っていて、すごい素敵だなと。彼の歌詞(ラップだとリリック)は、とてもキャッチーで、クスッと笑える。ことば遊びというか、彼が切り取る日常のことばが心地よかった。そうやって、ことばを音に乗せながら、日常が写真のように浮かび上がって来る。

僕が日常的に聴いている曲よりも、ことばが浮き上がってきてこれもまた楽しいなと。一つの楽しみを知ることができて良かった。

友と呼べる存在

この間、

「人生を楽しむためには、友達という存在がいなくても仲間がいればいい」

ということばを聞いた

それは、日本で一番売れている漫画を例にあげて、

彼ら一団は別に友達ではない。仲間である。というようなことを言っていた。

歳を重ねていくたびに、友という存在よりも仲間の方が、日常的であるのだと結構納得のいく考え方だなと思って聞いていた。

 

この人の考え方は、友という存在を否定したいというよりは、

友という存在をそこまで大きく人生の充実度と照らし合わせて考えなくてもいい

何かを一緒にやれる仲間がいればそれは良いことなのだと

励ましとも、暗闇を少しだけ照らしてくれるとも取れるそんなことばである

 

そんな中、先週から4泊5日で友人が僕の家に泊まった。

このご時世、いろいろな声もあるだろうし、

僕の住む地域も決して、感染者が落ち着いた時期でもない

しかし、一緒に遊んだ。

 

普段一人暮らしの僕にとっては

この5日間を過ごしての不思議な感覚は、

多少気を張ることはあっても、

互いに仲間でもあり友であった、

ふさわしいことばが見つからない感じ

 

何するわけでもない時間、話がここまで尽きないかと喋りに喋る夜、

美味しいものを食べ、またゆっくり寝る

そんな営みに喜びを感じる、皆でけらけら、けたけた、と笑う

嬉しいねと、決して生産的でないそんな日常を共に過ごすことのできる喜びそこにはあった。

 

友人に対しては、家族にも近いと常々思っていたけども

なんとも不思議な、非日常的でありながら、

それを日常的なものと錯覚するぐらいの一コマ一コマ

 

後2日ぐらいたら、僕の四角い部屋を丸く掃く感覚に

耐えられなくなりそうだった友人に掃除道具を渡して

きれいにして、と言いそうだった

実際、潔癖症の友人にとっては、

随所で幻滅というか、すべてが心地よい空間ではなかったと思う

でもそれに気づいてもなお、我慢してねと、

全部はできないんだと

ごめんねというカテゴリーではなく

わるいねとうカテゴリーにいれれる

 

こんな存在は稀有なのだろうなと思うと共に

このような存在がいることの幸いをも思う

このことは決して当たり前ではないことを思うと共に

いつでも変わることを知れる強さを持ちたいとも思う

 

 

 

 

 

 

 

 

なんてことのない日に

ブログはなんかあったときに

書くことがあって投稿していたが

今は何かを書きたいと思って

この文を書いているわけでもなく

 

ただ文字を記したいっていうことだけでも

書いてみてもいいかもなと

そもそもつらつら書くと言いながら

自分なりに力を入れて書いていたと

 

友人が家に泊まりにきている

この時期に…という声もあるだろうなと

思いつつ、まだ友人は寝ていて

僕は3時間前には起きて

遊ぶためには、仕事もしなければと

でもずっとやることは難しいので

今こうして意味を立てない文をつらつらと書き出すことで

この止まるでもなく進むでもないこの時間を過ごす

 

最後に

笑えるってことの幸せを思い起こす

悔しいってことの今を思い起こす by アフロ日記

 

早2年

お隣さんの梅がどんどんと開花し、年度の切り替わりを感じる。

育ったところから仕事で引っ越して、早2年になろうとしている。

日常はそこまで、変化は無いように感じるけど、

一年もあれば、なんやかんやあると改めて思う。

この一年で仕事以外で新たに始めたことや、僕なりのチャレンジなどを思い出してみる。

 

 料理に関しては、主に、ダッチオーブン(主に焼き芋)と圧力鍋(主にタコスや角煮などのホロホロ肉)という、二つの料理器具を購入したことが大きかったように思う。またこれとは別に、蒸し料理のポッサム(蒸し豚)を一時期めちゃくちゃ食べてた。あとは、コーヒーに関しては、マキネッタを購入し、家でなんちゃってカプチーノを作り始めた。これもまた良き。一方、一年目にハマっていた手作り果実酢は、炭酸水ブームの終わりと共に、後半は消費が進まなかった。燻製にも少し手を出したが、チーズがドロドロになったり、食材が酸っぱくなったりと、美味しくできず、今は挫折中。これは継続審議。

 感謝なことに、料理は、モチベーションを上げてくれる料理動画がYouTubeで山ほどあげられているので、自分のために作ること以上に、コロナ禍が収束したら、誰かのもてなしのために、技量を上げていると思いつつ楽しくしている。

今のところ、次年度は、キムチ、青唐辛子味噌、などの発酵食品部門に興味がある。あとは、デザートで、ティラミスとカヌレは探求してみたい。

 

 健康面で、自転車に乗っていたが、年明けから、ジムに行き始め、プールが楽しい。この2ヶ月で、3kg弱落ちた。しかし、大台なのは変わらないので、この一年で持っている服を苦しくなく着れるくらいにはなりたい。ジムに行って改めて思うのは、自分は体を動かすのが好きだということ。また最近はサウナにハマり始め、最近の流行に乗ってサウナ帽子を買うかと悩み中。

 

 趣味の充実度的には、やはりプロジェクターを購入したことが、大きな年だったようの思う。FireTVstickを同時に購入し、Amazonプライムで充実の映画,アニメライフを送ることができた。もともと映画は、レンタルビデオ屋に行っていたけども、それがなくなったのは、生活習慣を大きく変えたように振り返る。今でも漫画に関しては、レンタルするので、行くには行くが、ぐっと回数が減った。最近、天井に吊り下げるようにしてからは、さらに、プロジェクターの設置の煩わしさもなくなっていい感じ。

 あとは、先輩に連れられて、船釣りを初めて経験した。今年度は2度、タチウオ釣りと五目釣り。どちらも充実の内容。先輩からすれば、渋かったというが、十分に楽しめた。ただ、釣り道具、交通費、などで、お金は飛ぶ趣味であるように思う。これまでは、父と行くことが多かったので、自分で払うことはほとんどなかったが、こんなところで、父からの恩恵を感じる。

 他にも、YouTube投稿(友人のアカウントに話者として)、ふるさと納税(多分計算ミスで還付金戻らず…)、ファッションは苦手で遠ざけていたが、姉のアドバイスのもと服もまとめ買いしてみたりした。昨年度からのソロキャンプなども充実した年であった。

 

総じて、お金のかかる趣味が多いと思いつつ、ゴルフも始めてみたいなと思う今日この頃。

学生は、時間はあるがお金がないが、大人はお金があるが時間がないと言われるが、今年に限っては、お金に躊躇がだいぶ低くなったことによって、できなかったこともできるようになった年だったかなと思う。健康も支えられ、経済的にも、キリキリするわけでもない、こんなにも色々とできたのは、ただただ感謝だ。

ジム行き始める

1月からジムに行き始めた。

年末の大掃除の時に新聞を整理していたら、一枚のチラシに目が止った。

「某ジム 2022年記念 3ヶ月2022円!!」

最近、久しぶりに会う人会う人に、

「アフロくん、大きくなったね。」とか「アフロくん、丸くなったね。」

などなどが複数人から言われ、自分ではまだ大丈夫かなと思っていたけども、

改めて見る腹回りは随分前から気にはなっていた…

いや、すでにスーツのズボンがパツパツになっていたことには目をつぶっていた。

 

ということで、今までジムは、逃げだとどこか思っていた。無料で走ればいいじゃんとか、自転車漕げばいいじゃんと。

けども、プールあります、お風呂もついてますというチラシのアピールに、

最後、誰かの「アフロくん、太ったね」という言葉に、決断する。

 

今のところ4回くらい行ったけども、

感想は「めちゃ良い」

プールの後の足を伸ばせるお風呂に入れるのが最高。

一人暮らしの者としては、お風呂を炊かなくてすむのはめちゃくちゃ良い。

家の浴槽は足は伸びない。そう考えると、

この冬の期間でも、利用させてもらえるのは大きい。

少しずつ、健康になればと思いつつ。

 

 

最後に一句

ひさびさの 運動頑張り ひざ痛い

 

もう二十代ではないことを痛感してる。

 

忙しい時こそ

 昨日、本当に一日何もしない日があった。ほとんど寝室にいた。お腹が減れば、ご飯を作り。また横になる。仕事的には、この年末が忙しく、やっと忙しさの折り返し地点に来てボーとした。そのような中で、ふと友人が会社の先輩からかけられた言葉を思い出した。

「忙しい時こそ、資格をとるチャンス」

 友人に関していえば、建築士一級についてだ。彼はこの言葉を聞いて、秀才がこの部署には集まっていると語っていたが、この「忙しい時こそ、〇〇をするチャンス」は、今までの僕自身の時間的感覚、何かを計画する時の感覚をまさに揺さぶり、自分自身の生き方を問われる言葉だなと。そんな事を、忙しいと語りながら、昨日1日をガッチリと休みに当てた、翌日にこの言葉を改めて味わう。ブログなんてと思ってたら、去年みたいに1年間何も書かないで終わる。そう思うと、忙しいという感覚を抱きながら、〇〇のチャンスと考えながら、色々とチャレンジする事。むしろ、だらっとした時間、間延びした時間の中でするのではなく、この時、やるのであれば、過ごし方が変わるのかもしれない。休む時は休み、色々とやらないといけない日に、いろいろ詰め込む。そうする方が僕としては、いいのかもしれない。堂々と休めない自分がいる。次の日を考えて、でも何もしない自分に落ち込んだり。こんな歳にもなって、積み重ねができない。追い込まれないと動かない。今日という日をどのように生きることができるのだろうかと。時間に関して、さまざまな人がことばを残してくれている。そのような中で、今からでも、自分にあった時間の捉え方、生き方を改めて考えてもいいのかもしれない。仕事と現実逃避とを区別するのでなく、緩やかにそのことが混ざりながら、それでいて、進んでいくような、上昇していくような。積み上がっていくような。時間の過ごし方をしたい。こんな事を自分の成長を感じられない日々において、定期的にやってくる、自己肯定感を高めたい欲とあいまって書いている。さぁ今日の午後も忙しい時こそ、〇〇のチャンスと〇〇に何かを入れて、過ごそう。

 

確認すると、この日記が10本目か。次の大台は100本目。そん時は、時間の使い方も変わってるかも。さぁ、次の11本目だ。

甥の感情

今月、姉家族(姉、夫、甥)3人が飛行機に乗って遊びにきた。

いきなり余談だが、僕はかねてから、赤ちゃんが好きである。特にボンレスハムのようにパンパンになったあの腕や足は、他のものでは変えの効かないものの一つのように思っている。

 甥のそんな時期も過ぎ去り、今では喋るし、走り回れる年になった。今回、数ヶ月ぶりの再会の時には、僕のことを「〇〇おじちゃん」と言えるまでになっていた。たったそれだけの成長といえばそれまでだが、彼の成長に心からの喜びが溢れる。そして、どうにかして、今回の家族旅行が楽しいものになればと、思った。

二泊三日、という長いような短いような時間を一緒に過ごせたのは今までにないことであった。決して大きくはない家だが、そこに泊まってもらい、結局朝から寝るまで一緒に過ごす。仕事もあるし、飛行機の時間もあるので、実質は3日間丸々というものではなかったがそれでも彼の一挙手一投足がかわいい。当然、叫ぶし、あれしたいこれしたいと、所構わず要求するわけだが、それでも何か尊いものを彼に感じるのである。

さて、今日書きたかったのは、彼の感情である。

それは、無事に帰った姉から、甥が夜に「〇〇おじちゃんは?」と言って、僕がもう簡単には会えない場所にいるということを知ると、泣いたということを教えてくれた。

この出来事は、彼にとって、僕という存在が、涙を流すほどであったと受け取っていいだろうか。そうであってほしい。彼の中で楽しい思い出と共に、僕がいることをとても嬉しく思うし、彼の初めての飛行機、初めての長距離旅行において、僕の存在を問うってくれたことを。

最近はコロナでなかなかこれまで付き合いがあった人たち、それは家族でも友人でも、仕事仲間であろうとなかなか会えないということが続いている。でも大人になり、ある程度蓄えもあり、Lccなどを利用すれば帰省もしやすくなった。帰ろうと思えば帰れる。会おうと思えば会えるとう状況はいつの間にか、涙を流すほどに、その人と会えないことを悲しむということをしない自分がいることに気がついた。それは、甥よりも何倍も、出会い別れを経験してきたし、ある意味で、一つひとつの出会いにそこまで心を割いていたら、情緒が保てないようにも思う。しかし、僕にとって「〇〇〜」と行って別れを惜しんで、涙を流すことが少ないようにも思う。時に「死」によってそれは僕にも起こり得ることだと感じているが、それはどこか甥の無知のように、僕自身、まだあの人と会えると思っている無知な自分のことも思うのである。

今回のことを通して、甥と僕の状況は違うように思えていたけども、結構同じで、会えなくなる時に、涙を流すほどにその出会い一つひとつを喜び、楽しみ、心を割いていきたいな。人との時間を愛おしみ、感謝して、過ごしたいなと、大人のことばを一生懸命なぞる甥の姿を思いながら、僕もまた自らの時間を覚えたい。

 

 

最後に一句

ボンレスハム この文章 いらなくね