アフロ日記

日々の記録を、つらつらと。

友と呼べる存在

この間、

「人生を楽しむためには、友達という存在がいなくても仲間がいればいい」

ということばを聞いた

それは、日本で一番売れている漫画を例にあげて、

彼ら一団は別に友達ではない。仲間である。というようなことを言っていた。

歳を重ねていくたびに、友という存在よりも仲間の方が、日常的であるのだと結構納得のいく考え方だなと思って聞いていた。

 

この人の考え方は、友という存在を否定したいというよりは、

友という存在をそこまで大きく人生の充実度と照らし合わせて考えなくてもいい

何かを一緒にやれる仲間がいればそれは良いことなのだと

励ましとも、暗闇を少しだけ照らしてくれるとも取れるそんなことばである

 

そんな中、先週から4泊5日で友人が僕の家に泊まった。

このご時世、いろいろな声もあるだろうし、

僕の住む地域も決して、感染者が落ち着いた時期でもない

しかし、一緒に遊んだ。

 

普段一人暮らしの僕にとっては

この5日間を過ごしての不思議な感覚は、

多少気を張ることはあっても、

互いに仲間でもあり友であった、

ふさわしいことばが見つからない感じ

 

何するわけでもない時間、話がここまで尽きないかと喋りに喋る夜、

美味しいものを食べ、またゆっくり寝る

そんな営みに喜びを感じる、皆でけらけら、けたけた、と笑う

嬉しいねと、決して生産的でないそんな日常を共に過ごすことのできる喜びそこにはあった。

 

友人に対しては、家族にも近いと常々思っていたけども

なんとも不思議な、非日常的でありながら、

それを日常的なものと錯覚するぐらいの一コマ一コマ

 

後2日ぐらいたら、僕の四角い部屋を丸く掃く感覚に

耐えられなくなりそうだった友人に掃除道具を渡して

きれいにして、と言いそうだった

実際、潔癖症の友人にとっては、

随所で幻滅というか、すべてが心地よい空間ではなかったと思う

でもそれに気づいてもなお、我慢してねと、

全部はできないんだと

ごめんねというカテゴリーではなく

わるいねとうカテゴリーにいれれる

 

こんな存在は稀有なのだろうなと思うと共に

このような存在がいることの幸いをも思う

このことは決して当たり前ではないことを思うと共に

いつでも変わることを知れる強さを持ちたいとも思う